【うまく弾けちゃうアドバイス】 メルマガ・バックナンバー 08年10月29日
■今日のメルマガ執筆者
『ヨーロッパ式ピアノレッスン』
後藤宏一 [神奈川県横浜市]
ハンガリー国立リスト音楽院を修了するにあたって、試験に選んだのは、チャイコフスキーピアノコンチェルト第1番だった。
ある日、僕はレッスンが終わったあと、師匠に尋ねてみた。
「僕にチャイコフスキーのピアノコンチェルトを弾くことができますか・・?」
僕の目もみずに言った。
「弾ける。お前がそれを望むのなら」
僕がかつていたハンガリーには、ドナウ川がある。
ドナウ河は、こんなちっぽけな悩みを抱える僕を無視して、悠然とその流れを止めない。
日が沈んでいるはずなのに、川面の世界はゆるやかなブルーに染まって幻想に誘われる。
昼でも夜でもないそんな場所にいつも僕を招きいれてくれるのは、ドナウだった。
こいつは過去のさまざまな歴史や人々の営みをずっと観てきた自負からだろうか、ブダとペストの真ん中を堂々と、いや、ふてぶてしく流れてやがる。
師匠は、言った。
「弾ける。お前がそれを望むのなら」
僕はダメと言われると思っていたので、少しばかり拍子抜けしてしまった。
その日は試験の半年前で選曲に悩んでいたのだが、師匠の一言で練習を開始した。
師匠に裏技を教えてもらったおかげで、意外と早く形になった。
その頃、師匠は演奏会でベートーヴェンのピアノコンチェルトやベートーヴェン作曲・Fリスト編曲の交響曲のレコーディングや演奏会で多忙を極めていた。
僕はそれらを聴く度に嫉妬を覚えた。世界観が違うことを思いしらされた。
だが本番というものは刻々と迫って来た。気がついたら本番3週間前になっていた。
やるだけやった。そして、自信満々でレッスンに行った。
僕は師匠のスタインウェイのふたを開けて、師匠は横のベーゼンドルファーのピアノの前に座った。師匠がホルンのファンファーレの部分を弾き出したので、僕は自分のソロの最初の和音を掴む準備をした。
その瞬間、頭の中が真っ白になり、何を弾いていいのか分らなくなり、師匠のオーケストラパートの演奏を聴きながら、顔面蒼白になってしまった。もう一回、やり直したが、結果は同じだった。
師匠は急に、一階にあるオーディオの部屋に行ってしまった。
僕は、楽譜を念入りにチェックをしているのだが、頭に入って来ない事を確信した。一方、師匠は四十分ぐらい部屋から出て来なかった。僕の方も相変わらず状態は変わらなかった。
すると、一階から大きな声で「ヒロカズ、降りて来い」と叫び声が聞えた。
僕は慌てて、一階に降りて行った。
僕はカセットテープが散乱しているのに驚いた。どのカセットテープもケースの
上に寸分の狂いもなく、テープが乗っている状態だった。三十個は軽くあった。
師匠は言った。
「まずはこれらを聴いてみろ」
カセットに書かれた文字を読むと、協奏曲やソロリサイタルの生放送を収録したテープだった。師匠は次々とそれらのテープを僕に聴かせた。
僕は唖然とした。それらのテープは、師匠がミスをした場所だけを集めたものだった。
一時間が過ぎた頃、やっと聴き終わった。
師匠は言った。
「俺がこんなにミスをするのに、お前がしない訳がないだろう・・・」
僕はすっかり気が楽になった。
「よし、チャイコフスキーをやってみよう」と師匠が言い、僕たちはレッスン室に戻った。
不思議なことに、あれだけ弾けなかった最初の和音が簡単に出て来た。
師匠は僕にウインクをして、そのまま弾き続けた。
かつてこの国に来たばかりの頃、僕は、何もかもが耐えられなくなって自暴自棄になったことがあった。
放心状態のまま、うな垂れて、師匠、ジュラ・キシュの家に入っていったことがある。
彼は、僕の好きなバーボンウィスキーのロックを手渡し、僕はそれを一気に飲み干した。
そして、僕は言った。
「よくわからない・・・・ただ、寂しいんです。でも日本に帰りたいとか・・・ そういう意味ではないんです。何が寂しくて苦しいのかが分らないんです・・・」
師匠は僕の目を見て言った。
「原因が分らないのなら、一日一日精一杯生きてみろ。それも、時間を惜しんで生きてみろ。
それでも気持ちが変わらないなら、その時は自分自身で身の振り方を考えろ。それもやらないで、寂しがったり、苦しがったりして流れて行く人生の時間を無駄にするんじゃない。
ピアノなんかより生きることの方が重要なんだ。生きて・・生きて・・・初めてピアノを自分の表現の一部にすることができる。とにかく、生きてみろ」
そう言って、僕のグラスにウィスキーを注いだ。
「人生の成功はピアノが上手くなることだけではない・・・・お金を得ることだけでもない、ましてや地位や名誉でもない」
師匠は、グィッとワインを口にした。
僕は師匠のワイングラスを呆然と眺めていた。師匠は続けた。
「成功の定義は、人それぞれだ。ただ、お前がこの国に勝手に乗り込んで来た。それをハンガリーは受け入れた。受け入れたことに、お前は何かを感じる必要がある・・・
ピアノが苦痛ならばやめればすむことだ。それでお前が助かるなら、俺は止めない。」
これが、僕が師匠ジュラ・キシュからもらった最初のアドヴァイスだった。
ジュラ・キシュというピアニストは天才ともてはやされてきたのに、人間を忘れていないピアニストである。
初めて師事してから二十年以上になるが、何一つ変わることなくいつも同じように接してくれる。
彼の演奏の秘密はここにあると僕は確信している。
数多くの歴史的事件を呑み込み、そして笑い飛ばしてきたドナウ河。
この記憶を許さないドナウ河とジュラ・キシュを重ねてしまうのである。
師匠ジュラ・キシュは、おしえてくれた。
ピアニストである前に、大河のように懐の大きな人間であれと。
このことの大切さを伝えていく指導を、僕は後進に対して一生続けていきたいとおもっている。
『ヨーロッパ式ピアノレッスン』
後藤宏一 [神奈川県横浜市]
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